曽我八幡宮とは?
曽我兄弟の仇討ちは、建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曽我祐成と曽我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件で、赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つです。 曽我八幡宮は、その曽我兄弟を祭った神社です。
主神に応神天皇、相殿に曽我兄弟が祭られています。同神社所蔵「曽我八幡宮略縁起(木版)」によると、仇討ちから4年後の建久8年(1197)、曽我兄弟の意思に感心した源頼朝が家臣の岡部権守泰綱に命じて建てたものといわれています。 祭壇には、応神天皇の騎馬像を挟んで曽我兄弟と虎御前の木像が安置されています。
曽我神社は、富士宮市教育委員会により『歩く博物館』に選定されています。以下は、その案内板に書かれている内容です。
『社伝は、源頼朝が曽我兄弟の孝心に感じ、兄弟の英魂を祭るよう畠山重忠※を遣わし、建久8年(1197年)に上原の住人 渡辺主水に祭らせたと伝えている。この地は、新田四郎忠常※の陣所の近く、十郎祐成が討たれた所だと言い伝えられている。主神は応神天皇※で、兄弟はその相伝として祭られている。主神の応神天皇の尊像は、頼朝の命により文覚※が刻んだものだといわれる騎馬像である。兄弟の像は、畠山重忠が丹波法眼に命じて刻ませた像だといわれている。近世になって、歌舞伎や芝居で、「曽我物語」が盛んに上演されるようになると、曽我八幡宮では曽我兄弟の木像や兄弟ゆかりの品を持って江戸で出開帳※を行なった。その出開帳の収入が、神社の維持管理にあてられたものと思われる。』
※畠山重忠・・・(1164-1205年)平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。
※新田四郎忠常・・・(1167-1203年) 平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。名は仁田忠常とも日田忠常とも言われ、『平家物語』では「にたんのただつね」と読まれる。
※応神天皇・・・ 第15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日 - 同41年2月15日)
※文覚・・・ もんがく(1139 -1203年)平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧。文学、あるいは文覚上人、文覚聖人、高雄の聖とも呼ばれる。
※出開帳・・・ 寺院の本尊や秘仏などを他の土地に運んで行う開帳(仏像の拝観) 。